2017/06/07: 高尾山付近小仏街道;木瓜爺撮歩09-16-2 小仏山寶珠寺〔2〕 (No.3068)
勝手に「薬師如来」に決めた木瓜爺、このところ不調の十二指腸のあたりを撫でて、回復をお願いし、石段を上り始めます。
木瓜爺が「十二指腸潰瘍」で入院したのは、四十年ほど前です。仕事のストレスからの病でしたが、手術しないで内科的に治療しました。その時の瘢痕で十二指腸が変形してしまっています。先日久しぶりに内視鏡で覗いて貰ったのですが、変形の先まではスコープが入らなかったようです。目下別の手段で確かめようとしています。十二指腸を患うのは、母方の祖母の遺伝子の所為かもしれません。祖母は、私が小学生の頃、手術をしたのですが、十二指腸が毛糸くらいの太さになってしまっていたのだと聞かされたことを覚えています。
石段には手すりが設置されていました。登る時はそれ程感じないのですが、下るときは有難いと感じます。ちょっと奇異に思われるかも知れませんが、下るときの方がふらつきが増すので、ちょっと手を添えることで、安心して足が運べるのです。もうちょっと衰えると、登る時、手で身体を引っ張りあげる(?)ために使うようになるのでしょうね。
石段を上りきったところで、迎えてくださったのは?
「観音菩薩」のようです。「垂髪」がありますね。
左側に本堂が有ります。
「新編武蔵風土記稿」の「寶珠寺」は、『寶珠寺 除地二段四畝十八歩 小佛山にあり 禅宗臨済派同郡山田村 廣園寺末 小佛山と号す 開山は行基菩薩にて 開基は道明法師と云 寂年詳ならす 中興の僧華翁天閣 永享元年正月十二日寂す 本尊釈迦木の坐像 長一尺二寸 恵心の作なりと云 地蔵の像一軀あり 木の立身にて長三寸五分 萬来上人作と云へり 中年寺内より延慶三年十二月とえりたる古碑一基を掘出せしとて持ち傅へり 何人のなることは詳にせす』
行基菩薩が出て来ましたが、直ぐ近くの高尾山薬王院も行基の開山といわれるお寺ですから、不思議ではないのです。昨日のブログでも、行基の住まいの近くだという記述が出て来ましたね。古い寺だよという事を表したいときの表現だ、位に思うことにしておきます。「道明法師」の名前も、一昨日の「浅間社」に出て来ています。
お寺の方が、本堂の外廊下を掃除されていました。結構長い時間かかるようです。
このお寺は、初期は「天台宗」だったそうで、中興の「華翁天閣」が臨済宗に変えたとのことです。
本当に行基なら、法相宗というような宗派になる筈なのです。「天台」ということは、最澄が日本に戻ってからということです。
まず、本堂のお釈迦様にお参りしました。このお寺には「小仏不動尊」がおられるようです。不動堂はどこかな?
本堂の角をまわると、不動堂が見えました。
お参りする人が休めるようにベンチも置かれています。
「新編武蔵風土記稿」を見ると、寶珠寺とは別のお寺「不動院」の記述だあります。「小仏」の中ですから、これが吸収されたように思うのですが・・・
『不動院 除地十歩 小仏にあり 新義真言宗同郡下恩方村常福寺末 瀧本山と号す 開山開基祥ならす 本尊不動木の立像 長一尺八寸許 本堂二間四方 南向なり』
八王子仏教会の資料には、不動堂があることしか書かれていませんが、境内に不動の瀧があるとなっていました。
別物かも知れませんが、地元の方がたにとっての意味合いは、続いているのでしょう。
こちらのご本尊は、多分後ろにおられると思いますが、前立は絵姿です。不思議にすらすら出てきた不動明王の真言を唱えてお参り終了。不動堂の脇に、守護神社らしいものが有るのですが・・・
神殿は閉じられていました。稲荷ではないようです。賽銭箱の横におられるのは、神様ではなく仏様のようですね。小仏には「大日堂」があったのですね。この「大日堂」に祀られた小さな仏像が「小佛」の地名のおこりと云われていたのです。もしかすると、その名残の「大日堂」かも知れません。そう思うと、この小さな仏像も有り難みが増します。ちゃんと接写してくるのでした。其の横にあった石祠。これも曰くがありそうですが、木瓜爺くたびれてきました。最後は「庚申塔」です。これは、安永三年(1774)の建立。
もう一度、本堂前で合掌し、バス停の方に戻ります。丁度バスが出る時刻なのですが、もう一社、探したい「辨天様」が有るのです。次のバスは30分後なので、30分で見つけてお参りしたいと思います。