2017/05/25: 多摩ニュータウン;木瓜爺撮歩96-92-1 上之根公園で八坂神社さがし (No.3055)

「新編武蔵風土記稿」で、小名「上ノ根」があるのは、「落合村」ですが、神社リストに「八坂神社」の元になりそうな「午頭天王社」は見当たりません。「山王社」は「山王下」にあると書かれているのですが、何だか変でしょう? 普通だと「山王社」があって、其の坂下が「山王下」と呼ばれるのですが・・・この疑問は明後日に説明します。話を戻して、すでにお参りした「白山神社」以外のじんじゃというと、『御嶽社 ・・・山王の東の方二町はかりにあり 是も小社なり 百姓の持』 と、神明社、稲荷社、秋葉社が書かれているだけです。しかもこれらは小名が違います。ということは、「新編武蔵風土記稿」より新しい神社なのでしょう。

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「乞田川」の左岸(向こう側です)に沿って、さかのぼって行きます。両側に遊歩道が作られ、水際まで下れる場所も出来て居ます。

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しかし、遊んで居るのは、人間ではないようでして・・・鳩が日向ぼっこをしていました。

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今気が付いたのですが、「新編武蔵風土記稿」では、乞田村の中央を流れる川を「落合川」としています。『落合川 村の中を流る 連光寺村に注く それより末流は玉川へ入る』この「玉川」は「多摩川」のことです。

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根性花ですね、石畳の間で花盛りです。こんなものを見ながら歩いているうちに、右折予定の場所に来ました。大きなトラックが走っている路が見えます。其処を横断すると、「上之根公園」がある筈です。

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横断したところで、右の方を写しています。いやあー入道雲みたいですね。これは又降られるかな? 家に戻ってから、家内に聞きましたら、羽村の方でも入道雲みたいなのが発達して、降ったようです。

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公園の入口というか、この階段は上の方にある住宅への路のようです。上がらずに、左折してみます。

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「上之根公園」の杭が立っていました。その入口の方に入って行くと・・・

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成る程、園地になっています。公園の端っこに「八坂神社」がくっついていないかと期待したのですが、これで行き止まり。仕方が無いので、戻りながら、下界の方をみてゆくと・・・・

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みっけたー あの建物でしょう。 えーと、神社の向きは・・・向こう側ですね。つまり、西側から入るようです。「上之根公園」の入口に戻って、西に進みます。

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2017/05/24: 多摩ニュータウン;木瓜爺撮歩96-91 乞田八幡神社 (No.3054)

吉祥院を出て、一旦「上の根大通り」に戻りました。小田急・京王線のガードをくぐり、すぐ右に入ります。

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 ほんの少し歩くだけで、「八幡神社」の横腹に出ました。

角を曲がって、正面に出ます。m96-91-03-D3C_6722

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ここが、「乞田村の鎮守」だった「八幡神社」です。二ノ鳥居までありますね。

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「新編武蔵風土記稿」では、『(乞田村)八幡社
除地二千四百坪 字宮田にあり 勧請の年代を傳へす 棟札に天和二年再建とあり 本社は宮作にして覆屋二間四方なり 拝殿二間に三間ともに東向なり 神體は束帶つけし像にて長一尺ほと 當村及ひ貝取二村の鎮守なり 例祭年々九月十五日角力を興行す 吉祥院持。』 
なのですが、境内に由来らしきものもありましたので、あとで拾い読みます。

m96-91-06-D3C_6727 境内は、駐車場になっています。

 

 

 

 

 

 

 

 m96-91-08-D3C_6730社殿は、後部に神殿を納めた覆屋があるようです。

    

 

 

 

 

 拝殿前のほうで、お参りします。祭神は八幡様ですから、「応神天皇」でしょう。

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見つけた「乞田八幡神社」の由来碑。木瓜爺の写真では駄目なので、きちんと読んで下さった方に伺いました。

『乞田 八幡神社 由来

当社の御祭神は応神天応をお祀り申し上げている。又当社の創建は延徳二年九月(一四九〇)室町幕府後期、五百五十年前であると古より申し伝えられている。明治六年十二月村社に列せられる旨、時の所轄庁の神奈川県より通達があり昭和二十九年四月宗教法人として登記完了。永きにわたり国家の安泰と五穀豊穣を祈願し、現在は平和国家、家内安全、縁結びの神として信仰を集め親しまれている。昭和四十五年より実施された多摩ニュータウン開発に伴う土地区画整理事業に依り交換地、町名変更等が行われ、昭和四十九年九月に当地に移転し遷宮され現在に至っている。 平成七年十二月

八幡神社宮司 黒木章 』

どうもこの記述によると、昭和49年に位置替えをされたようですね。

なお、「多摩市史」の記述によると

『天和二年(一六八二)再建の棟札控には、上乞田・下乞田・貝取・宇竜(瓜生)の四か村とあり、それぞれ村民の名が記載され、遷宮の導師吉祥院や大工の名も見える。』とのことです。このあたり全域の鎮守的役割にあった神社なのですね。

お参りを済ませた木瓜爺、地図を睨んでうなっています。「乞田川」に沿って200m程西に歩き、そこから北の山の方に行って、山腹にあるらしい「上之根公園」の高所から神社の屋根探しをして、先日寄り忘れた「八坂神社」に行くということにしました。上から見れば、神社の入口のある方角が分かるだろうという魂胆です。うまく屋根が見つかるかどうか?

2017/05/23: 多摩ニュータウン;木瓜爺撮歩96-90-2 唐澤山 明王寺 吉祥院〔2〕 (No.3053)

吉祥院は「多摩八十八所霊場十四番」だそうです。ほかに、例の十三佛霊場も兼ねて居ます。山門をくぐる前に、左側に「子育地蔵」もおられました。

m96-90-14-D3C_6688この両側にも、地蔵様が整列なさっているのですが、お気の毒なことに、全部打ち首になられたようです。

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これは、明治の「廃仏毀釈」は、「神仏分離」の誤った解釈による暴徒による被害でしょう。この騒ぎは地方によっては、めちゃくちゃをしています。平均的知的レベルとも関係がありそうですが、実際は、「国学者」が変じた「神祇官」とか、一部の「僧侶」といった知的レベルの高い連中が、庶民を扇動していたらしい。お地蔵様こそ迷惑千万と嘆かれたでしょう。

山門の前にいます。写真ではちょっとみえませんが、扁額には左から「吉祥院」と書かれています。

正面に見えるのが本堂です。本尊「不動明王」のお住まい。

この建物は新しいですね。

山門を抜けると、左側に「護摩堂」が作られています。この護摩堂のほうが、本堂より後に再建されて、その再建記念碑がありましたので、後ほど紹介します。

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手水舎では龍君が迎えてくれましたが、たまり水状態で、あまり手水を使う気に成りません。柄杓で汲んで龍君に水浴びさせてやりましたので、少し艶っぽくなりました。m96-90-17-D3C_6692

反対側におられたのが「阿閦如来」。例の十三佛の一つです。この如来、あまり馴染みがないのですが、『阿閦(あしゅく)如来には、悟りを得るための発心が極めて強く、戒を律する事も堅く、何時も心が乱れ揺れることが無い事から不動・無動如来とも呼ばれたり、或いは、絶対に怒りの心を起こさないという義の無瞋恚(むしんに)如来という別称がある。』のだそうです。ぶれない如来なのですね。

m96-90-18-D3C_6693本堂m96-90-19-D3C_6696

本堂には「唐澤山」の額です。

昨日、このお寺に、昔は「観音堂」があり「馬頭観音」が祀られていた事を書きました。

ちょっと脱線しますが、秩父の三十四観音霊場で、観音堂本尊に「馬頭観音」を祀っているのは、二十八番「橋立堂」だけなのです。これで分かるように「馬頭観音堂」は珍しい存在で、現在無くなっているのは残念に思いました。ところが、「護摩堂」に祀られているのだそうです。

m96-90-20-D3C_6695護摩堂

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『護摩堂 鐘楼建立記念碑

そもそも當山は昔相模領に属し、鎌倉時代戦火の為、本堂・庫裡を消失した。その後、江戸時代に入るや徳川幕府の命により中興尊慶和尚が慶長十三年六月四日伽藍を建立し、興隆吉祥天・大日如来・本尊不動明王を安置し、号して吉祥院明王寺と称し、山号を唐沢山とした。その後、天明・関東の両大震災にあい、また風雪の変遷を経て老朽化し、昭和四十四年三月多摩ニュータウン建設に伴って本堂・書院・庫裡の再建を見るに至った。しかし、當山は江戸時代には馬頭観音菩薩を奉った観音堂と鐘楼が境内にあり、その状況が武蔵風土記に記されており、惜しくも、明治時代に至って排仏毀釈令に依り観音堂・鐘楼は損失するにいたった。

この度は、當山法灯三百八十年に当り、又興教大師八百五十年御遠忌を控え、御本尊不動明王の御加護と壇信徒の皆様の絶大なる御支援の依って馬頭観世音菩薩を始め、新たに不動明王・干支十二支守本尊を加えて護摩堂として、又更に鐘楼を再建したものである。 平成元年十一月吉日 吉祥院住職 津守弘範』

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その鐘楼は、護摩堂と本堂の間を、墓地の方に入った所に建立されていました。

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墓地の為の桶などが置かれた反対側に、これは布袋さんかな?何をしておられるのか、よく分かりません

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 鐘楼の手前に、「観音菩薩」らしい像を彫った石碑と、「宝筺印塔」が立っています。

鐘楼の先は墓地です。お騒がせしてはいけないので、ここで回れ右します。

なかなか良いお寺ですね。

墓地にお参りされる方の為のトイレも、護摩堂の後ろの方に用意されています。

 

 

 

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 護摩堂のナナメ前に、小さな池?鉢の兄貴分が作られていて、蓮の花が咲き始めていました。m96-90-27-D3C_6717

 なお、乞田・貝取両村の八幡様は、この寺が別當であったそうです。それでは、「乞田八幡神社」だろうと思う「八幡神社」に行くことにします。「乞田川」の向こうにあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

2017/05/22: 多摩ニュータウン;木瓜爺撮歩96-90-1 唐澤山 明王寺 吉祥院〔1〕 (No.3052)

m96-90-01-D3C_6664「縄文の村」から西に進むと、右手に・・・サンリオのビューローランド、駐車場の入口のようです。それにしても、日本語が見えない! 木瓜爺が車で来たらどうなるだろう?と、心配になります。辞書を引くからまって・・なんて、追突されたりして・・・

ははあ、小学生から英語を教える意味が分かったぞ!

このあたりは、「新編武蔵風土記稿」では「落合村」でした。

m96-90-02-D3C_6667 交差点の表示を見ると「上之根橋南」。「上之根」という小名は「落合村」にありました。白山神社に行ったとき「青木葉」という交差点に出ましたが、あの道の延長上にいるようです。「青木葉」も「落合村」の小名でした。

では、ここで一旦横断しておいて、左折。北に向かいます。

m96-90-03-D3C_6668 遠くに「夢庵」の看板が見えています。「吉祥院」に行くには、あの前あたりで、右に入らねばなりません。「吉祥院」も「落合村」かなと、「新編武蔵風土記稿」を見ましたが、ありません。おかしいなあと近隣を探すと「乞田(こった)村」に属していました。

乞田村というのは、乞田川流域ですが、『東は連光寺村につつき 南は小野路村に隣りて山中を界とす 西は落合村にて北は和田 百草 落川の三村なり ここも界は山中にあり 東西二十五町南北三十町 南北の方はことに山々かさなりて不平の地なり・・・』などと書かれています。「柿の実」を江戸に出て売っていたようです。

m96-90-04-D3C_6669武道具のお店がありました。ここで右折らしい。

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奥の方に、寺の屋根が見えます。

『(乞田村)吉祥院
字窪谷戸にあり 唐澤山明王寺と號す 新義真言宗 高幡村金剛寺の末山なり 開山を尊慶といふその年代は傳へす 本堂七間に八間半 本尊不動の坐像を安す いつの比よりか寺領十石の御朱印を賜ひて今に領せり その由緒等は二たひまて回禄にあひて 古記録を失ひたれは總て傳へすと
観音堂 境内の北の方にあり 二間四方 馬頭観音を安す 長一尺ほと、作しらす』

ここも二回火災にあって、古記録を失ったと書いていますね。こちらも、「高幡不動」の末寺でした。統計的に調べたわけではありませんが、真言宗、不動明王とくると、「護摩焚き」をしますから、火災の危険も大ききくなるでしょうね。ただし、こちらの場合は鎌倉時代に「戦火」で焼かれたようです。

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境内はかなり広いようです。ここは隣に有る吉祥院アバホールとかいう葬祭場の駐車場入口のようですから、左に進んで、山門の方に行きます。

m96-90-07-D3C_6673おや? 飾り物の双体道祖神。

ほほえましい・・・

こんなモノを置かなくても十分楽しめる石仏群が門前に並んでいます。今日は門前をじっくり拝見します。本当はもっと沢山撮しているのですが、沢山投稿出来ないので、絞ってお見せします。

六地蔵とその親分地蔵が並び、石碑を挟んでまたお地蔵様。木瓜爺が、釘付けになったのは、石碑のほうなのですが・・ちょっとウンチクになりそうです。

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m96-90-09-D3C_6678 これが、問題の石碑。「南無阿弥陀仏」と書かれているのですが、これが珍しい「徳本碑」なのです。レイアウト乱れるかも知れませんが、部分拡大した写真を入れます。

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「徳本碑」については、木瓜爺ブログで、詳しく書いた事があります。

30- 相模原散歩;木瓜爺撮歩97-01 「徳本碑」 (No.2215)

「浄土宗」の異端兒(?)徳本讃誉上人が、全国行脚をして、あちこちに建立した「念仏供養碑」の一つなのです。「乞田村」の字長山というところに、「阿弥陀堂」があったそうですから、其の附近に建てられていたものかも知れませんね。

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山門の左にもお地蔵様たちがおられます。

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これも、良いですねえ・・真ん中は「庚申塔」です。一番左の端は頭の上がかさばっていますから「馬頭観音」かな? 其の横も欠けてしまっていますが馬頭観音ですね。風土記稿に書かれていた「馬頭観音を祀る観音堂」の名残かも知れませんが、鎌倉街道も近い場所ですから、あちこちに馬頭観音がおられたのでしょう。

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気温がぐんぐん上がって来ました。電車に乗るとき寒くなって着込んだ山で着るジャンバーみたいなものを、ここで、脱いでザックに戻しました。

2017/05/21: 多摩ニュータウン;木瓜爺撮歩96-89 縄文の村 (No.3051)

多摩ニュータウンの続きを歩こうと、5/18 家を出てバスを待っていると、ピカッ、ゴロゴロッ! これは止めておけと云うことかな? 空の感じは、通り雨の雲に見えるので、やってきたバスに乗って出発しました。ニュータウンのほうは、幸いにたいして降らず、木瓜爺は予定通り歩けたのですが、ちょっと後の時間に医者に出かけた家内はザンザン降りになったそうです。

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19日のブログで、吉祥院はあっちの方だ、と書いた交差点までやってきました。この先に、「東京都埋蔵文化財センター」という施設があり、そこに「縄文の村」という庭園が作られていると聞いていましたので、寄る事にしました。

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やってきました。この場所は、やはり「発掘」現場の一つです。その土地を利用して、博物館を作ったわけですが、当初は「多摩ニュータウン建設」の際、発掘された物品を扱っていたのですが、平成三年からは、都全域の埋蔵文化財を扱うようになったのだそうです。

博物館には、常設展示と特別企画展示があるのが普通ですが、今年は・・・平成29年度企画展示『東京発掘 江戸っ子のくらしと文化』・・・でした。

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展示内容を詳しくレポートするほど記憶力がよくない(博物館内の写真は、原則的に撮せません。特別な許可を文書で申請する必要があります)ので、展示は省略。ただパネルを読んでいて、面白いなあと思ったのは、この多摩ニュータウンが作られたあたりの人類の盛衰。旧石器時代にはじまり、縄文で一旦ピークを迎えるのですが弥生に移る前に消えてしまうのだそうです。何が起こったのか分かりませんが、多分食料問題でしょうね。そして、弥生時代に入るとまた稲作民族が田圃が作れる場所に住み着くのですが、古墳時代に入る頃にまた消えてしまうらしいのです。多摩ニュータウンが高齢化で怪しくなっているのも、土地の宿命なのかも知れませんね。

「江戸っ子のくらし」の特別展示の中で、一枚だけ内緒で写したのは、「賢猫之塔」という供養塔。こういうのもあるのだという木瓜爺撮歩用参考資料です。江戸期のものでした。

展示室を出て、「遺跡庭園 縄文の村」に行きます。m96-89-07-D3C_6645

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復元住居が三戸作られています。二つ目の所に休憩舎があるようなので、そこで昼食にします。

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こちらの住居は、竪穴式ですが、床面に平らな石が敷かれている「敷石住居」で、この形式のモノとしては、やや後期に属します。あとで、内部の写真を、お見せします。

木瓜爺はさほど詳しくはありませんが、高校生時代の「部活」が「地歴部」でして、発掘作業には何回かかり出されています。

例えば、あきる野や国分寺の遺跡に、今上天皇が学習院高等科の生徒として、発掘にお見えになるという話などがありますと、かり出されて、ここほれワンワンの下調べなどをしておくのです。直接指令が来るわけではないのですが、発掘を案内する先生の弟子たちが、我々の高校の先輩なので、そこから号令が流れて来るのです。懐かしい思い出になっています。

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「湧水」があると道標に書かれているので行ってみました。たしかに、m96-89-11-D3C_6652

「湧水」らしき水溜まりはありましたが・・・

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枯れてしまっているようです。雨の後だけ出てくるのかな?それとも、水道水を少し出しているのかな?

二つ目の住居の前にある休憩所。荷物がおかれているので、誰か近くにいるらしい。ともかく、空いて居るベンチに座り込んで、昼食。

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 といっても、今日は立川駅で買ってきた袋入りの小形のアンパン3箇。雨が降るかも知れないので、立ったまま食べられる軽食にしておいたのです。そういえば、買ったお店は、女性がターゲットらしくて、商品がみんな小形なのです。この前お結びを買いましたら、小形は我慢するにしても、握りが柔らかくて、口に運ぶ前にばらばらになってしまうのには参りました。ここは駄目だと思ったのですが、それを忘れてまた入ってしまった。次は、別の店にしよう・・・

置いてあった荷物の持ち主が戻ってきました。庭園の管理に当たっておられる方でした。午前中に小学生が1校来たし、午後にも1校来るので、そのガイドをするのだそうです。m96-89-14-D3C_6657

パイプを咥えたくなったのですが聞いてみると庭園内は禁煙。吸える場所は、建物のあったところの自動販売機の近くにあるとのことでしたが、我慢します。

三つ目の住居で内部の写真を撮して来たのですが・・・ストロボ使う時にレンズフードを外すのを忘れてしまった・・・やっぱり、呆けとる。

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住居の中は真っ暗です。照明はないので、入口に置かれている懐中電灯を使ってくださいと書かれている住戸もありました。

これは、天井です。「炉」の煙は抜けるけれど、雨は入ってこないという、結構技術が必要な屋根なんですよ。m96-89-16-D3C_6661-

こちらが、床面。切り株の椅子があるのは、現代人の感覚です。だって、ここで眠るのですから、こういうモノは邪魔でしょう?

一回りして、庭園を出ました。こちらに行くとどこに出るのだろう・・・なんて、ちょっと探検したら・・

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道路の上空を通過して、向こう側に出てしまいました。真ん中に見えている建物が、展示室のあった建物です。右手の階段あたりに出て行くつもりでしたのに。下の道に戻って、東に進みます。

プロフィール

Author:zokubokejii
木瓜爺とは、呆け爺の仮面! 傘寿を過ぎて物忘れがひどくなり、ブログを外部メモリーに使い始めています。「撮歩」と称し、カメラ片手に散歩、疑問に思った事などを調べることで、頭の体操も兼ねた「健康維持」です。健康の証明に毎日投稿を目指しているのですが、どこまで、続きますかねえ?
自分の写真を入れたのですが、 一旦削除・・・後で入れ直します。

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